ぷちリチュアルな日々

ちっちゃなスピリチュアルをむっちゃ楽しんでます☆

あなたの娘で良かった


こんにちは、麻夢です♪

今回の記事は、皆さんに語る感じではなくて、私の備忘録です。

悲しいお話なので(しかも超長い)無理して読まないでね (^^)

楽しいお話のときに、どうぞ再訪してくださいね☆

皆さんのブログへの徘徊も滞っていましたが、少しずつ再開しますので、またよろしくお願いします♪

母は、40代の頃にはすでに、高血圧の薬を常用していた気がする。

高血圧だと、色んな合併症になりやすいって聞くけど… 60歳頃だったかな? 風邪をこじらせて、その治療薬の副作用で血糖値が高くなって、そのまま糖尿病になってしまった。

他にも、脂肪肝だの骨が脆いだの狭心症だの言われて、夜眠れるようにと安定剤まで、長年、大量の薬を処方されて服用してきた。そんなに薬を飲んだら、腎臓にも負担がかかってしまうわけで…

・.*...☆...*.・.*...2023年...*.・.*...☆...*.・

病院を変わると、薬を見直してもらえたらしく、腎臓は回復の兆しを見せた。

それでも、一度壊れた腎臓は完治できないようで、不安定な状態が続いた。頻繁に発熱を繰り返すのはたぶん、腎臓のせいなのだろう。

私が実家を出て一人暮らしをするようになってから、そして結婚しても、この22年間毎日、母は夜10時に私に電話してきた。

最初は、一人娘の私が無事に帰宅しているか確認するためだった。私は信用されていないんだと感じて、ウザくて仕方なかったが、母が高齢になってくると、私は逆に、この電話で母の元気を確認して安心するようになった。

母にとっても、もう義務感ではなく、私とコミュニケーションをとる楽しみに変わっていた。

でも最近、母は体調が悪くて寝ていることが多くなり、私に "10時の電話" をかけることをよく忘れるようになった。電話自体は私からかければいいのだが、楽しい時間が来るのを忘れるほど体調が悪いのかと思うと、心配だった。

12月中旬頃だったか、お腹が痛いと言うようになった(新たな症状)。"10時の電話" は、忘れるというレベルではなく、かかってこなくなった。

シータヒーリングで観たところ、胃のすぐ下、腸の上の方が、なんだか窮屈で、炎症しているように感じた。

病院を受診するように勧めたが、持病で何年も病院通いが続いて嫌気がさしていたので、さらに病院に行くことを極端に嫌がった。

年末に私たち夫婦と4人で過ごすのをとても楽しみにしていたので、それまでになんとか治そうと、ひたすら寝込んで安静にしていた。

 

12月30日

母が吐血と下血をしたので、父が救急車を呼んだ。

腸閉塞とのこと。持病で飲んでいる薬のどれかの影響で、造影剤が使用できないらしく、モヤっとしたCTの映像とレントゲンだけでは、出血の場所を特定することができないらしい。

状況から、破裂はしていないとのことだが、寸前の状態だったのかもしれない。

私はシータヒーリングで母にエネルギーを送って、早く治るように祈った。このとき、母の肉体の寿命はまだあること、母は潜在意識では回復を願っていることがわかって、少し安心した。

 

12月31日

初めての、母がいない年末。父と旦那くんと3人で、でも母がいるときと全く同じようにして過ごした。とても寂しかったけど、父はもっと寂しそうだったので、私たちはいつもどおりに明るく振舞った。

・.*...☆...*.・.*...2024年...*.・.*...☆...*.・

1月5日(金)

年末年始は、病院側がお見舞いを受け付けていなかったので、この日、やっと母に会えた。

4人部屋だけど、とても具合が悪そうで、小さな声で一文字ずつ話した。

私は耳を母に近づけ、その一文字ずつを声に出して確認した。

「し」「に」「た」「い」 …え (- -;)

大きな声で言っちゃったよ… 同室のおばあちゃんたちが大注目 (><;)

「この部屋はね、治る人たちが入ってるんよ、お母さんも治るんよ、そんなこと言わんとよ」となだめた。母からは不安と苦痛がたくさん伝わってきて、ほんとに、早く元気になってほしいと思った。

 

1月~4月

母は、お腹を痛がることはなくなったようだが、食欲は回復せず… 年々食が細くなってきてはいたが、入院してから全く食べないので、どんどん痩せて、あっという間にガリガリになってしまった。

腎臓も悪化して尿が出せず、本来ならば血管に吸収されるはずの水分が皮下に溜まって、手が水風船のようにパンパンに浮腫んでいた。

尿も、便も、排泄できないと、飲食さえままならなくなってしまうんだ…「排泄」という機能が、生きていくうえでどんなに大切なものか、初めて身に沁みてわかった。

母はベッドに寝たままなので、筋力は一気に衰え、枕から頭が落ちても自分で戻せなくなってしまった。だから、首を傾けてテレビを見ることなんてできない。握る力も弱くなって、本を開いて持つことができないし、携帯電話を耳に当てることもできない。

さらに、目が霞むというのでよく見ると、黒目が白く濁っていた。まさか白内障? テレビや本どころか、普段の視界さえも見えにくいってこと?

このままではボケてしまう… 新たに心配事が増えてしまった。

病院のお見舞いは、感染症対策のため厳しく制限されていて、平日の14時~16時半、患者1人につき家族1組のみ2名までしか受け付けてもらえないルールとなっていた。

父は毎日行くので、私は、ほんの少しでも母の日常に変化を持たせる刺激になれればと、週2回くらいでランダムに、父と一緒に行くことにした。勤め人じゃなくて良かった…いつでもお見舞いに行ける。

お医者さんは、母が病院の食事を食べなさすぎるので「何でもいいから、好きな物を持ってきて与えてあげてほしい」と言ってくれた。サイダーとかヨーグルトとかリンゴジュースとか…父は、母が好きなものを毎日持って行った。

母は、父が持ってきた飲み物を少しずつ、美味しそうに飲んだ。

でもそれだけじゃ、もちろん栄養は足りない。

回復する気配は見られず、1人部屋に移された。首の血管に管を差し込まれ、そこから直接栄養を入れるようになった。鼻には、酸素のチューブ。

「こんなに繋がれてたら動けない、もう死にたい」母は涙を流しながら訴えた。

痛々しい姿… でも、瞳の白濁はなくなった。栄養状態は白内障にも影響するのだろうか、それはわからないけど、とにかく1つでも改善したのは良かった、と、思い込むことにした。

ごめんね、お母さん。でもまだ寿命じゃないとよ。治ってほしいんよ。

首から栄養を入れて数日、ガリガリだった頬が少し戻って、肌ツヤが良くなってきた。体力も少し回復して、ご機嫌な日が増えた。

ある日のこと。

母「麻夢ちゃん、そろそろ結婚相手探さなね(超ニコニコ)」

私「…?」私は結婚歴15年。

母「ワイン♪ワイン♪ワインパーティー♪(謎の歌)」母はもう15年くらいお酒飲んでない。

少なくとも15年以上前にタイムトリップしているようだ。とうとうボケた?…まぁ、母が楽しいならいいや。元気になってくれるんだったら、ボケたってかまわない。

次にお見舞いに行くと、母はちゃんと現在時刻を生きていた。やっぱ、できればボケてない方がいいや。タイムトリップから帰ってきてくれて、ちょっとホッとした (^^;)

1月22日(月)お見舞いに行ったけど、翌日の夜、仕事から帰ってきた旦那くんが発熱…コロナだった。旦那くんはいつからウィルス持ってたんだろう、同居している私も持っているはず、昨日のお見舞い、父と母は大丈夫だろうか…

不安で仕方なかったが、幸い、私の周りでは両親も誰も発症しなかった。よかった…

私も続いて29日に発熱、コロナを発症した。2月3日(土)熱は下がったけど、さらに1週間、お見舞いに行くのは見合わせた。両親はもちろん、万が一にでも病院にウィルスを持ち込むわけにはいかないから。

2月13日(月)やっとお見舞いに行けると思っていたのに、病院内でインフルエンザが発生して、面会が規制されてしまった。母はインフルエンザのワクチンを接種済みなので大丈夫だろうと思ったので、私はシンプルに "会えないこと" にガッカリした。

面会の規制は2月26日に解除され、2月27日(火)約1ヶ月ぶりに母に会えた。

母は、4人部屋に戻されていた。

少し前、腎臓がなかなか回復しないので、名前は忘れたけど、月に6本までしか使えないという薬を投与された。人の血液から作られるらしく、感染症のリスクがあるものだった。

でもその薬はとてもよく効いて、母は劇的に回復した! 水風船みたいに浮腫んでいた手は、すっかり元通りになった。

「浮腫みが治ったね、きれいな手になったね、良かったね」

母は少し照れた表情で、自分の手を眺めて、嬉しそうにさすった。食事はまだ十分に食べれないが、多いときで1/4程度食べるようになった。父が持っていくジュースやゼリー飲料も、容器を自分で持って飲む。少し力が入るようになってきたみたい。

便も少し出るようになって…それは良い事だけど、お腹に溜まった古い便も出てくるからね、カチコチでお尻が痛いらしく、排便の後はテンションだだ下がりだった (^^;)

目に見えた進歩で嬉しかったのは、リハビリの進捗! ベッドの端に5分ほど腰掛けることができるようになった。

先生からは、リハビリのための転院について話があった。病院には役割が課せられているようで、この病院は治療を終えたら出ないといけないらしい。でも、自分で歩ける、最低でも、自分でベッドから車椅子に移れるようにならないと、同居している父に負担がかかりすぎるので、このまま退院させるわけにはいかない、リハビリの病院に転院して、自宅で日常生活ができる程度まで回復させる必要がある、と説明を受けた。

先生のお話は、十分納得できるものだった。ただ、リハビリのための入院は2ヶ月間と決まっているらしく、回復できなければ施設へ移ることになるらしい。不安だが、今は、母が回復して家に帰ってくることだけを考えよう…

転院かぁ。元気になってきて家に帰りたがっている母はきっと、ガッカリするだろうな。今ついているリハビリの先生は小柄な女性で、明るくてニコニコしてて、母はこの先生が大好きで、とても楽しそうに頑張っている。この病院にいる間にそこまで回復できれば一番いいのだけど…

母に転院のことを話すと、納得はしたものの、やはり少しショックな様子だった。いや "少し" じゃなかったんだろうな。母は、転院の話を何度も忘れた。父はその度に話すが、毎回初めて聞くような反応をした。そしてストレスからか…耳が遠くなってしまった。

季節は春になった。

母の気分転換になるといいなぁと、桜やチューリップの写真を撮ってきて見せると「キレイやねぇ」と喜んでくれた。父が「また稲築公園に桜を見に行こう」「遠賀川のチューリップも見に行こう」と誘うと、嬉しそうに頷いた。

そして桜が散る頃、母の状態はまた、悪くなった。

せっかく座れるようになっていたのに、ベッドに仰向けに寝たままの日々に逆戻りした。きれで可愛い手は、また風船のように浮腫んだ。

食べても吐いてしまうので、また食事をしなくなり、父が持っていくジュースさえも飲まなくなってしまった。母は気持ちが沈んでしまったのだろう、お見舞いに行っても、寝たふりをして目を開けようとしない。

それでもサイダーだけは欲しがる。でも炭酸だからよけい、ゲップと一緒に吐き出してしまう。父がそれを膿盆に受け止めるが、母はまたすぐ、寝たふりに戻る。

父が嘔吐物を処理するため、ベッドから離れると、その気配で、母はハッと目を開け、病室を出る父を必死に目で追う。会いたい気持ちは、全然隠せてない (^^;)

「捨てに行っただけよ、すぐ戻ってくるよ」と言うと、不安そうな表情で私を見る。

でも父が戻ってくると、また寝たふりをする… 素直に甘えればいいのに。可愛いなぁ。

父に具合が悪い姿を見せるのが嫌なんだろう。父がガッカリするのを見たくないとか、退院が遠のくのが嫌とか、父が毎日欠かさずお見舞いに来るのが逆に心配とか… 母なりの理由がいろいろあるみたいだった。

母に相手にされず、父は元気がなかったが、そんな母の様子を話して「ほんとは一緒にいたいんよ」と教えると、ホッとした顔になった。

母は、こんなにイジケてしまった状態でも、どんなに具合が悪くて小さな声しか出せなくても、必ず毎回、私に言うことがある。

母「麻夢ちゃんは、旦那くんがいるから大丈夫よね?」

私「うん、大丈夫よ」

母「お父さんが心配、病院からちゃんと帰れるか心配なんよ、毎日来んでいいって言って!」

私「お父さんは、お母さんに毎日会いたいんよ」

母「お父さんのこと看てあげてね、お父さんのことよろしくね」

私「もちろん大丈夫よ、だからお母さんは、自分が元気になることを考えてね、それがお父さんの一番の望みなんよ」

母「うん…」

そして父と母にも、帰り際に必ず毎回、することがある。

父「大好きですよ、愛してますよ、頑張って、元気になって、楽しいことを考えて」

母の手を握りながら、人目をはばからず大きな声で堂々と言うと!!

すると母は、具合が悪くても、機嫌が悪くても、ふっと笑顔になって「ありがとうございまーす」と答える。

私は、そんな二人のやりとりを見るのが大好き。とても可愛いくて愛おしい時間♡ 本当に、母が早く元気になって家に帰ってくればいいのにと、強く願う…

ほんの少しでも母の助けになればと、何度かシータヒーリングでエネルギーを送ったが、大きく回復する感じはなかった。でも今回も、まだ肉体の寿命は残っていると感じたし、本人も元気になりたいと願っていると感じた。

そんな中、アルケミーハンドサージャリーのエネルギーが、排泄や毒出しに効果が高いようだと気付く出来事があった。もしかして、母に効くのでは…?

新しく手に入れたクンダリーニレイキアルティメットという発展系レイキも使って、二つのエネルギーを合わせて送ってみたところ、いや、たまたま偶然かもだけど、母は明らかに元気が出てきた。

まだ声は弱々しいけど「歩けるようになりたい」「みんなで網焼き食べに行こうね」と、前向きな希望を言ってくれた。嬉しい。絶対行く!!

4月15日(月)近くの病室の入院患者がコロナにかかったため、再び、面会が規制されたと連絡があった。病院内の状況が落ち着くまでは、お見舞いに行けないし、母に会えない日が続く…

せっかく元気になりかけていたのに。仕方ないと自分に言い聞かせるけど、気持ちは割り切れない… 母にも私たちにも辛抱の日々となった。GWが近付いてくる。連休に入る前には、一度どうしても会いたい。

いや、会うことよりも今はとにかく、母が元気になってほしい。私は毎日欠かさず、二つのヒーリングエネルギーを送った。

4月25日、規制がやっと解除され、父は早速、母に会いに行った。

 

4月26日(金)

前回のお見舞いが12日(金)だったから、ちょうど2週間ぶり、やっとお見舞いに行けた。

久しぶりに会った母は顔色が良く、手の浮腫みもほとんど消え、しっかりした声でハキハキ喋れるまで元気になっていて「会えないって寂しいもんやねぇ」と、笑顔でしみじみ言っていた。

「食欲が出てきた」「鯛の刺身が食べたい」「歩けるようになりたい」「家に帰りたい、ほら1日だけ出れるのがあろうが!」って…

前向きな希望がたくさん聞けて、すごく嬉しかった! でもまだ、食べたら吐いちゃうんで「外泊はね、ご飯が食べれないとOKしてもらえないよ、早く元気になって退院しよ、頑張ろ」なだめることしかできなくて、もどかしかった。

この日、母はニコニコ笑顔で、とてもよく喋った。入院して以来たぶん一番元気で、嬉しかった。久しぶりに、楽しくて穏やかな時間を過ごした。

お見舞い終了の時間が来たので「じゃ、また来るね」と手を振って、ベッドから離れた。

いつもはそのまま病室を出るんだけど… 今日はなぜか、もう一度振り返った。

ベッドで少し上体を起こした母は、ニコニコしながら、右手を布団から出して、胸元で小さく、ゆっくりだけどリズミカルに振って "バイバイ" していた。

その姿&笑顔がむちゃむちゃ可愛くて、愛おしくて、大好きだなぁと思った (^^)♡

私も思いっ切りニコニコして、もう一度手を振った。

そのときの母の姿は、鮮明に目に焼き付いて離れなくて、何度も何度も思い出して、なんだかとても不思議な感じがした。

 

4月30日(火)GW合間の平日

旦那くんが休みを取ったので、旦那くんと二人でお見舞いに行く予定だったけど、きのう父から電話がかかってきた。

父「お母さんから電話かかってきてね、亭主に会いたがってるんよ」

亭主?あぁ、お父さんに会いたがってるのね、土~月が3連休で会えなかったもんね。それはもちろん、お母さんの希望が優先!

お見舞いは相変わらず、1日1組限定2人までって決まりなので、この日は父と旦那くんの2人で行って、私は病院の駐車場で待っていた。

母は金曜よりさらに元気だったとのこと、お見舞いから戻った父はとても嬉しそうに、母の様子を教えてくれた。旦那くんも安心した様子で、ニコニコしていた。

母も、久しぶりに旦那くんに会えて、嬉しかったみたい (^^)♪

 

5月1日(水)

いつものように母にヒーリングのエネルギーを送ったけど…

イメージの中で、母の頭が、額から上がスパンとなくて、とても異様な感じがした。

頭部に、特にしっかりと丁寧にエネルギーを送ったけど、なんだかとても不安になった。

 

5月2日(木)

父と一緒にお見舞いに行く予定だったけど、父は珍しく約束を忘れて、一人で行っていた。

お見舞いは1日1組しか許されてないからね、私は今日は諦めて、病院の駐車場で父が戻ってくるのを待っていた。

父「あれ?今日やったかね、ごめん」

この日の母は、頭が少し痛い、でも先生には言わないで、と言っていたらしい。それ以外は元気で、昨日よりもっと元気だったって!

でも明日から4連休。またしばらくお見舞いはおあずけになる。

父「せっかくのGWなんだから、旦那くんとどこか遊びに行っといで」

私「明日は友達が帰省するから、一緒にご飯食べるっちゃ。旦那くんは一人で寂しいけ、遊漁船予約して釣りに行くんよ」

GW明けの火曜日にお見舞いに一緒に行く約束をして、私は家に帰った。

 

5月3日(金)

私は友達3人でお食事会。旦那くんは遊漁船で沖まで出て釣り。夫婦別々に楽しむ休日。

友達とランチ中、父から電話がかかってきた。

父「病院から電話があって、お母さんの血圧が下がってきたから、早めに会いに来た方がいいって」

私「血圧?どういう意味?」

父「危篤ってこと」

昨日まで元気って言ってたやん、なんで急にそんなこと言うと?

父「今日は祝日だけど、特別にお見舞いに来ていいって、病室には2人ずつだけど、交代しながら何人でも何回でもいいって」(※ 通常、お見舞いは平日のみ、1患者につき1組限定2名までというルール)

私「ふーん、ご飯食べたら行くね」

言葉の意味は分かるけど、理解が追い付かない。私は席に戻って「危篤だって」と言って、食べかけのサンドウィッチにかぶりついた。

友達「危篤?誰が?」

私「お母さん」

友達「食べてる場合じゃないよ、早く行きな!」

頭が真っ白。手が震える。わからない。なんかもう、何もわからない。なんで?なんでこんなことになっとると?

友達を店に置き去りにして(私の車で乗り合わせてきてたのにね、ごめん、ありがとう)そのまま病院に向かった。

途中、シータヒーリングで母にエネルギーを送ろうとしたけど… 創造主と繋がった瞬間、わかってしまった。

今日、母の命が終わる。

全身の血が凍りついた。胃のあたりがギューって痛くなって、自分でも聞いたことのない、絞り出すような悲痛な叫び声が出た。

「嫌、嫌、助けてよ!」

知っている神様の名前を呼びまくって、必死で助けを求めて、色んなエネルギーヒーリングを使って… いやそれより早く病院へ…

病院にはすでに父と叔母(母の末の妹)が来ていた。病室には2人ずつしか入れないけど、私が到着したと知ると、叔母はすぐ私に譲ってくれた。

叔母「意識が無かったんだけどね、お父さんが必死で話しかけて、少し気が付いたよ」

母は、意識が朦朧としているようだけど、小さな弱々しい声で、何か話し始めた。何て言ってるのか聞き取れないけど、頭を撫でながら「お母さん、お母さん」と呼んだ。

やっと聞き取れた言葉は…

母「今日はお風呂入りたくない」

私「…?」

父「昨日がお風呂の日やったんよ」

私「あぁ… 今日は入らんでいいとよ」

こんなときに、そんな話??? もぉ可愛いんだけど (^^;)

看護師さんの話だと、今朝、いつもと違って、反応が遅いなぁと感じたので、気を付けて様子を見ていたらしい。すると、だんだん目が合わなくなってきたので、父に連絡を入れてくれたらしい。

母は少し持ち直したのか、血圧が安定してきた。すると看護師さんから「もう時間です」と、お見舞い終了宣告されて、私たちは病室から出されてしまった。

こんなときなのに? 今帰ったら絶対後悔する…

看護師さんに、もう一組の叔母夫婦がこちらに向かっているから、待合室で待たせてもらえないだろうかと相談して(病室には入れないけど)病院にはもう少し居られるようになった。

帰らなくて良かった。10分も経たないうちに、また血圧が下がってきたのでもう一度病室へ入るようにと、今度は人数制限しないと言われた。

母はさっきより、もっと苦しそうになっていた。宙を見て、短く小さな呼吸をハッハッと繰り返して、その間隔が少しずつ広がってきて、そんなんじゃ絶対酸素足りないと思った。血圧は下がりすぎて、測定不能になった。

父と、叔母と、3人で必死に呼びかけていたけど… 母は、フッと目を閉じた。

目を閉じたというか、目を開ける力さえも出なくなってしまった感じ。完全には閉じきれてない、薄く開いた目で、ずっと父を見ている。父は、母の頬や手をさすりながら、ずっと懸命に母を呼び続けていた。

母は呼吸が止まり、反応も無くなった。私たちは3人とも、呆然として声が出なくなった。

すると看護師さんが「心臓が動いているので、まだ聞こえているはずなので、声をかけてあげてください」と言ってくれた。

私は右手で母の頭を撫でながら、左手で母の右手を握ってみた。浮腫んで紫色に腫れあがった手は、もう力なく、ブヨブヨで、どんなに苦しんだんだろうと思うと「…こんな」と腹の底から絞り出すような声が漏れてしまった。

「お母さん、頑張ろ、もう少し一緒にいたいよ」そう言ったものの…

命の瀬戸際、本当に頑張ってる人に対して、こんな苦しい状態を続けるように応援するなんて、私は残酷なのかなぁ? もう楽になった方が、お母さんは幸せなのかなぁ? お母さんは今、何を一番望んでいるのかなぁ?

いま明らかに寿命を迎えようとしている母を目の前にして、もう極限に何も考えられなくなって… すると私の奥の方から、自然に言葉が湧き出てきた。

「頑張ってくれてありがとう、でもね、もう少しだけ一緒にいさせてほしいんよ、お母さん、大好きよ」

母の薄く開いた目が、私を見た。そして少しだけ、笑顔っぽく表情が緩んだ。ちゃんと聞いてくれたんだなぁ。届いたんだなぁ。

頭を撫でながら、しばらく「お母さん、お母さん」と、呼び続けたけど… 額から、肌がどんどん青白くなっていった。唇の色も消え、顔全体が青白く、血の気がなくなった。

16時36分、母の心臓は静かに止まった。穏やかな寝顔だった。

父と母は、やっと一緒に家に帰れた。あんなに家に帰りたがっていた母は、家に帰り着いたことがわかっているのか、もっと穏やかな表情になった。

でも父はまだ穏やかに過ごせない… 葬儀屋さんとの打ち合わせや、枕経や… 悲しいのに、とても慌ただしくて、すごくかわいそうだった。

 

5月4日(土)通夜

通夜は実家で、身内だけですることになっていた。

でも葬儀屋さんは、前夜の打ち合わせで決定したことを翻して、柩が家に入らないから遺体を斎場へ運び出すと言いだした。

通夜の前に納棺なんて知らなかった。私たちは葬儀慣れなんかしてないから、それを知らないことが無知で恥ずべき事かどうかさえも知らない。一から十まで説明してもらわないと、ほんとに何にもわからない。

実家は大きな家だけど、古い造りで入口や廊下が狭く、物理的に柩が通らないことはすぐに理解できた。

でも、じゃぁなんで、昨日家に来て状況確認したときにそう言ってくれんかったと?

葬儀屋さんは、通夜をするにはこの部屋は狭いとか、散らかっているとか、人を呼べる状態ではないとか、色々言ってきた。

腹が立って、一言だけ強く言ってしまった「だけんこれから掃除するとよ!」

ほんとはもっと言ってやりたかった。

そんなことわかっとぉって。だから家から掃除道具をたくさん持ってきたんよ。あんたにとっては連休中に増えたやっつけ仕事やろうけど、だったらスムーズに進められるように、昨日のうちに細かいところまで詰めとけよ。そっちの伝達ミスをこっちに被せるな。

何よりも、お願いだから、父と母が最後に過ごす「自宅での一晩」を取り上げないでくれ。

母を温かく見送りたい、父を傷付けたくない、だからこれ以上場を乱さないように、必死で言葉を飲み込んで我慢した。

結局は、葬儀屋さんが譲歩してくれて、通夜はベッドに寝た状態で、納棺は葬儀当日の朝、斎場へ移動してからということになった。

でも部屋はホントに汚くて… 正直、葬儀屋さんに貶されても仕方ないくらい (^^;)

父を疲れさせたくなかったけど、掃除は、父と旦那くんと私、3人でのフル稼働になった。

家具類を別の部屋に移動させて、何度も徹底的に掃除機をかけて、さらに水拭きして、部屋はずいぶん綺麗になった。

ベッドで眠る母は、真っ白な布団に覆われてて、真っ白すぎて、なんだか少し寂しかった。

「花屋さんに行こう、小さな花束をあげよう」旦那くんの提案で、花を買いに行った。

この時期、世間は母の日一色で、花屋さんにも母の日用のアレンジメントがたくさん飾られていた。右も、左も、後ろも、目の前には作りかけの… 耐えられなくなって、泣き出してしまった(花屋さんごめんなさい)。

ピンクのカーネーションと、ブルーと白の小花、お母さんの好きそうな可愛い花束… 眠っているその胸元に置いて「旦那くんからのプレゼントだよ」と声をかけた。

通夜は予定通り17時から、ごく近い親戚だけで、温かく行われた。

母を眺めながら聞くお経は、なんだか不思議で、涙が止まらないのに実感がなくて、通夜はあっという間に終わってしまった。

通夜が無事に終わったことで、葬儀屋さんに抱いたモヤモヤも収まって、少し落ち着くことができた。急な案件に対応してもらってるんだから、手違いも出るよね。明日はお任せしよう…

今日は実家に泊まるつもりだったけど… 掃除のとき、旦那くんが重い家具をどんどん運び出して別の部屋に詰め込み過ぎたので(むっちゃ助かったんだけどね、でもね)私たちが泊まるはずの部屋が… w(゚Д゚)w

夜は帰宅して、翌朝来ることにした。

 

5月5日(日)納棺、葬儀、初七日

朝の9時から葬儀屋さんがやってきて、母は斎場へ運ばれていった。

9時半から納棺の儀が始まった。

湯灌(ゆかん)が行われ、父と私、旦那くんは、柄杓で足元から胸に向かって少しずつお湯をかけた。

母はきれいに洗ってもらって気持ち良さそうだったけど、最後の会話「今日はお風呂入りたくない」を思い出して、ちょっとクスっと笑ってしまった。

お風呂のあとは、用意した服を着て、可愛いお出掛けスタイルになった。藤色のインナーに、桜色のブラウス、元気な頃よく穿いていたベージュのスカート。そして軽くお化粧…

納棺師さん「お母様、華やかなお顔立ちしてらっしゃるから、薄化粧でもかなり華やかになってしまって…ちょっとご確認いただけますか?」

近寄って見てみると、超美人が眠っていてビックリ! 元々、ファンデとチークとリップくらいしか塗らないタイプだったし、今もそのくらいしかされてないのに…いやぁ、可愛らしい顔立ちとは思っていたけど、実は派手めの美人さんだったんですねぇ…

「よかったね、久しぶりにお化粧したね、きれいだよ♡」

納棺師さんには即OK! きれいにしてもらえて、すごくすごく嬉しかった。

柩はピンク☆ 昨日、父が、値段が少し高くなるけどピンクの柩にしたいと相談してきた。母はピンクが好きだったので、私もそうしたいと、賛成した。

ピンクの柩に、華やか美人な母。ほんとはそろそろ目を覚ますんじゃないと?と思ってしまうくらい、とても生き生きキラキラに見えた。

11時からお斎(おとき)、葬儀は13時から始まった。

葬儀の冒頭、お坊さんが母の枕元に近づいた。そのときなぜか「切り離されてしまう」と焦って、思わず立ち上がりそうになった。

実際、お坊さんは母の頭の上で、ナイフのようなものを振り下ろし、何かを切り離すような仕草をした。肉体と魂を切り離す儀式…だったのかな?(わかんないけど)

葬儀は1時間ほどかかったはずなのに、なんかほんとにあっという間だった。

最後に喪主の挨拶で、父が「もう一度、人間同士に生まれ変わったら、また結婚したい」と、涙でカスカスになった声で、震えながら言ってくれた。

悲しかったけど、嬉しかった。娘として、これほど嬉しくて幸せな言葉はない。

気付けばもう出棺の準備で、柩に花を入れていた。

花に埋もれて眠る母、それまでに何度も何度もお別れのあいさつをしたはずなのに、最後にやっぱりどうしても、あと1回…

冷たくなった頭を撫でると、本当にこれで最後なんだと実感した。

「お母さん、あなたの娘で良かった、ありがとう」

やっと言えた。小さな声しか出なかったけど、やっと言葉にできた。生きてる間に言いたかったけどね、こんな照れくさいこと、絶対言えんかったもん。

柩の蓋をみんなで閉めた。蓋の上には花束…たまたまだけど、母の好きだった赤いバラがメインで、すごく可愛かった。そしてもう一つ、通夜の前に旦那くんが買ってくれた花束も一緒に置かれた。

火葬前にも少しだけ、お顔を見ることができた。

今朝までは「火葬して骨になるなんて耐えられない」ってすごく怖かったけど…実際は、意外と平気だった。

平気?…ちょっと違うか。あまりにも姿が変わりすぎて頭が追い付かないのと、骨壺にちゃんと入れてあげなくちゃという使命感で、悲しいと思う暇がなかった。

そのままお寺へ行き、初七日まで済ませた。お坊さんが、母につけた法名の意味を教えてくださって、その内容に感動した。感動したけどその分、母の死を実感することになってしまった。

ぽっかりと穴の開いた胸に遺骨を抱いて、私たちは母を連れて帰った。

 

そして今…

夜中になると、涙が出て眠れない。何をしててもなんか震えるし、ちゃんと食べれるけど胃が痛い。心も身体も不安定みたい。母の生きた日々が一日一日遠くなっていくのが悲しすぎて、まだ受け入れられないでいる。

亡くなる前日、私がお見舞いに行けなくなったのはきっと、母が大好きな父と最後のゆっくりとした時間を過ごすための「必然」だったんだろう。夫婦水入らずの時間がとれて、本当に良かったと思う。

私とのお別れはたぶん、その前の金曜日に済んでたんだな。あのときの母の姿が不思議なくらい目に焼き付いたのはきっと、魂同士が今世でのお別れの挨拶をしたからだろう。

奇跡みたいに元気だった最後の1週間、病気で苦しんだ母に、大切な人たちとお別れの挨拶をする猶予をいただけたように感じて… そう思うと少し、自分の気持ちが救われる。たくさんの持病を持って、もうすぐ81歳というところまで生きたんだから、大往生と言ってもいいのかも。お母さん、よく頑張ったね☆

一人暮らしになった父をウチに呼ぼうかと思ったけど、そう相談するより先に「地震に耐えれるように、家を補強する」なんて "DIY頑張ります宣言" されてしまった。母と過ごした家を離れる気はないらしい。

怪我でもしたらと思うと怖くてたまらないけど、せっかく父の口から出た、生きるための、立ち直るための "前向きな言葉" を遮ることなんかできなくて… 尊重しようと覚悟した。

度々、父の様子を見に行きながら、私も少しずつ、気持ちを立て直していきたい。

以上、備忘録。

大好きな母の最期を絶対に忘れない。

何か思い出したら、その都度、書き加えていく。

こんなの、まさか最後まで読んでくれた人なんているのかな?

もしそんな人いたら… ありがとう。

あなたも、どうかご両親を大切にしてくださいね (^^)

 

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